1952-05-02 第13回国会 衆議院 法務委員会公聴会 第2号
戰争末期にありました有名な横浜事件、あのときは細川嘉六氏を中心として、雑誌記者その他三十四名が横浜の警察に留置されまして、そのうち留置場で非常な拷問に耐えかねて死んだ者が二名、釈放されてからすぐ死んだ者が一名、三十何名のうち三人までが殺されております。ところがこの三十四名は全部無実の罪でありました。ところがそのときに、貴族院、衆議院両方およそ八百五十名の議員たちは、一言もこれに触れておりません。
戰争末期にありました有名な横浜事件、あのときは細川嘉六氏を中心として、雑誌記者その他三十四名が横浜の警察に留置されまして、そのうち留置場で非常な拷問に耐えかねて死んだ者が二名、釈放されてからすぐ死んだ者が一名、三十何名のうち三人までが殺されております。ところがこの三十四名は全部無実の罪でありました。ところがそのときに、貴族院、衆議院両方およそ八百五十名の議員たちは、一言もこれに触れておりません。
最後の断末魔になつて、刀折れ矢盡きたという場合を考えますと、小国の戰争の末期に呈しております現象でございますが、小国の戰争末期の状態を見ますと、日本的に言えば、これは笑い話でありますが、竹やりやバケツを持つた軍隊、そういう組織を持つた軍隊というものもないことはない。また、まるで軍隊底抜けのような装備を持つた警察というものもある。
と申しますのは、昨年の計画は七・二%で、四・五%に圧縮した結果になつたのですが、そのために昨年度の停止計画及び修理改造計画というものはかなり持越になつておりますので、こういうことをたびたび繰返すと、丁度戰時中に来年は電気がなくなつてもいいからめちやくちやに焚けと言つて火力を焚いたために、戰争末期から終戰直後にかけて果して供給力はがた落となつた。
これらを相協調して戰争末期頃から直後におけるような雑然とした状態から徐々に引締めの方向に行かなくてはなるまいと、かように考えてこのたびはだんだん秩序が正常に復しつつある以上は、政治の立場としては、国民の負担をできるだけ軽減して行かなければならない。
ただ苛酷だと比較的に感ずる点は、それはイタリアの場合には三分の二というふうになつておるのが、日本の場合には全額……、三分の二という限定がないという点でございますが、これはまあ内田局長が御説明になつたと思いますが、イタリアの場合は戰争末期における連合国の共同交戰国になつたという特殊の事情がある。
○政府委員(西村熊雄君) 第二次世界大戰後ドイツ人と日本人に対してとられた所定の境界内への強制移住の問題でございますが、これは何と申しましても、合法、非合法の問題というよりも、戰争末期において連合国が考えておりましたドイツ処理、日本処理の方針から割出された措置であると考えられるものでございます。連合国によつてとられた措置として我々は認めざるを得なかろうと存ずる次第であります。
この戰時中に土工工事をしてそのままになつておる線は、戰争末期において産業振興というような立場から計画された路線でこれは国の経済興隆のために寄與する産業線が多いと思うが、何線残つており、それを今後どういう計画で完成されるかということを伺いたい、それが第一。
これは完全なものができるかもしれませんが、あの戰争末期の防火建築というか、ああいうふうなものに対しても、ただこれは請負人の利益になるとか、あるいはセメントの会社の利益になるというようなことで、決して国民自体は得はしないばかりでなく、効果がまるつきりなかつたように考えられる。
今では比較的悪い石炭でがまんして、戰争末期から戰後ずいぶん苦しんでやつて来た。今度はわれわれの時代が来た。いい石炭を買えるのだ。それから大阪では生産業者の会社が十九社あつた。そして販売店がかれこれ百五十軒くらいのものがあつた。そういう人たちはたいてい生産業者に結びつかなければ、自分らの永続性がない。だから販売店はこぞつて生産業者について行く。ところが大きな生産業者は自分で売りたい。
○田渕委員 お伺いしたいのですが、証人に、入ソ前の一般軍及び在外同胞の健康状態と、それから入ソ後において著しく落ちたというような点等を伺いたいのですが、一般に私が想像いたしますのに、南方の方は、戰争末期は、敵の潜航艇で非常に食糧の輸送なり、あらゆるものがとだえた。
すなわち、昭和二十四年度予算こそは收奪的苛酷なる重税予算にして、あえてこれを強行する場合には重大なる社会問題を惹起するであろうことをわれわれは予言し、かつ警告しておいたのでありまするが、確かにわれわれの予想通り種々の破綻を来し、納税終末期と年度末を控えて、中小商工業者、農民、労働者諸君の窟乏ほ最頂に達し、まさに戰争末期における以上の経済的恐慌と社会不安を来しておるのであります。
戰時中、ことに戰争末期におきまして、北海道には八十万トンの貯炭があつたが、この石炭を本州に運搬することができない。当時機械、設備の一部と数万の労務者が九州、山口に送られて参りました。ここにむりな採炭が要請せられまして――現在福岡県では全国出炭量の四〇%を出しておるのでありますけれども、戰時中は統計が示すごとく実に六〇%を引受けておつたのであります。
○三浦政府委員 現物不足の処理の実情についてのお尋ねのようでありますが、この不足の薪炭につきましては、いわゆる帳簿と現物をたな卸しをして、一々やつたことがないということからいたしまして、一口に十年間の特別会計開始以来の問題であるということで説明もし、事実またそういうことなのでありますが、その内容は主として戰争末期からのものが数合に多いようです。
戰時中、殊に戰争末期におきまして、北海道には八十万トンの貯炭がありました。この石炭を本州に運搬することができない、当時機械設備の一部と数万の労務者が九州、山口に送られて参りました。ここに無理な採炭が要請せられました。現在福岡県では全国出炭量の四〇%を出しておりますが、戰時中に案に六〇%を引受けておりました。そしてその影にこのような災害、いわゆる特別鉱害を残しております。
たまたま戰争末期におきまして都市の防空疎開という問題から、一朝有事の際には避難の道路としても扱い、又交通幹線としては非常な重大な意味を持つこの南四條線を拡幅することによりまして、これらの目的を達することができるというような見地から、この南四條線を四十五メートル程度に疎開したわけであります。
また運送されて入つて来る食糧も、たくさんの駅から、非常に大量のものが入つておりますし、また当時は非常に食糧事情が今日に比べますと困難なときでありまして、これに対処するいろいろな緊急措置が多かつたために、東京食糧事務所だけは多少整理が遅れたといううらみがあつた次第でありまして、その後徹底的に、その当時から終戰当時までさかのぼりまして調査しました結果、大体戰争末期におけるもの、また終戰直後におけるものと
それから甲府から横浜へ行きまして、横浜から東京へ、当時の東京区裁判所檢事局ですね、そこへ参りまして、それから昭和二十年、戰争末期のときに長野地方裁判所檢事になりました。それから浦和の地方裁判所檢事になりまして、二十一年の十一月東京の檢事局に帰りまして、それからずつと現在に至つております。
交付状況の変更による方針の変更ではありますが、事実戰争末期におきまして自給製塩を担当して、一生懸命にその設備の拡充に努力した関係の業者といたしましては、その方針の変更によりまして、いわば非常に面くらつたようなかつこうになつているのであります。これも状況のかわつたためにやむを得ず補助金の交付が少くなつたということで、納得していただいておる次第でございます。
ところでこれは戰争末期、それから戰争直後は食糧関係で非常に減りましたのですが、一番少なくなつたのが昭和二十一年度の二万町歩。それであの当時やはり一般には相当煙草は出ておつたのですが、それは從來ありましたストックを使つてやつておつた。煙草は御承知のように二年ぐらいストツクしておいて使うのが品質的に一番いいのですが、段々ストックは使い果しまして、現在は殆んど端境期にはストツクがない。